なぜブログを書く気になったのか?

あまり能書きは並べたくないのでなるべく簡潔に。
おれはブログ嫌いってずっと言ってきたわけなのね。
ウェブ文化黎明期、個人サイトにおいて最も恥ずかしいものとされていたコンテンツが日記だった。
しかし、だれもが情報を発信することができるというインターネットの特性上、むしろ日記こそが個人サイトの主要コンテンツとなっていくのは、至極当然の趨勢であると予測もしていた。身近に起きた出来事や日々の雑感を綴るのは、なんら特権的な営みではない。だれもが随筆家に、私小説作家に、詩人に、写真家に、映像作家に、芸術家になれる――そう、三上寛が歌った「あなたもスターになれる」時代が〈本当に〉やってくるのは間違いないだろうという先見はあったのだ。
個人がサイトを開設しようという動機はさまざまだろう。同じ趣味をもつ仲間と知りあいたいがために開くとか、さらには自分のサイトをそうした同好の士の情報交換のためのコミュニケーションの場にしたいとか、あるいは人が集まる場をつくればそこでビジネスが成り立つだろうと目論んでか、まあいろいろと推測される。
だが、いま挙げた例のほとんどは、ほぼもれなく掲示板文化と出会い系サイトとファイル共有サービスとSOHOビジネスに収斂されていった。とりわけ、2ちゃんねるの登場により、個人サイトにおける掲示板のありようは根本的に問われることになった。匿名であっても(もちろんコテハンを名乗っていても、それが匿名であることに変わりはない)特定の板や特定のスレッドへ行きさえすれば、自分が望む情報交換はできるのである。
かくして、個人がウェブ上で情報発信することの意義があらためて問われてくるようになった。
それらを踏まえ、おれはこの春に自分のサイトを5年ぶりにリニューアルしたのだが、サイトの状態はきわめて閉鎖的だ。閉鎖的であることを意図しているわけではない。ところが結果としてそうなっている。
情報を発信するもののところに情報は多く集まる――情報理論におけるエントロピーの法則を曲解した結果、情報の質や内容や意味や価値と乖離したところで「情報量」のみが数量的に求められるようになったうえに、このような迷信が立脚している。
クロード・シャノンとともに「通信の数学的理論」を著したウォーレン・ウィーバーは、コミュニケーションを次のように定義づけている。「ある人の精神がほかの人に影響を与えることによるすべての手続き」
……とかいう話はもう面倒臭くなったのでやめる。簡潔にならなくなってきたので。
おれはただたんに、自分のマシンのハードディスク以外に殴り書きするスペースが欲しくなった。そしていよいよブログをはじめた。そういうわけである。
おまけにキーワード機能だのなんだのがついていて、真の意味での「ハイパーテキスト」を書くには大変便利だ。
さて、これからこのブログはどうなってゆくんだろうね。