声の力(とか大仰に)

繰り返し言っておくが、おれは自他ともに認める美声のもち主である。
だが、これについて途轍もない陥穽がある。
大きな声でしゃべらないとその魅力を発揮できないのだ。
日常会話においておれは、しばしば「なにを言っているかわからない」と相手に言われることがある。
「普通」に話していると、ボソボソ言っててなんだかわかんない、と多くの人々に言われてしまうわけだ。
つまり、シアトリカルな話し方をしないと、相手に「言いたいこと」すら伝わらない局面が多々あるわけである。
いつもいつも腹式呼吸で声を出すということはかなり体力を必要とするものである。
塾講師として講義を行う場合、あるいは電話での占いを行う場合*1、それは「相手に届くように」声を出すということを念頭においているわけで、それはそれで一応「仕事」としてはまっとうしているとおもわれるわけであろうし、特段問題はない。
問題があるのは、上述のとおり日常会話においてだ。


おれは、これをどうごまかしてきたか。
「独り言」であると自分に言い訳をして、同時に、きくものにたいしてもそう言い訳をしてきたのだ。
ボソボソぶつぶつなにを言ってるんだとだれかに言われたら「ん、独り言。気にしないで」と応えてごまかす。
これがおれの処世術だった。


かつて勤めていた、とある出版社でもおれはそうしていた。
入社後しばらく経てば、鈴木は独り言が多いのだと編集部のみなが感じ、それがおれの職場でのキャラとして成立ししてゆく。
はずだった。
ある日、おれの「独り言」について、先輩がツッコミを入れた。
「鈴木くんが独り言ばっかり言ってるのはね、耳がいいんだよ」
やられたとおもった。
しかも彼はそれを「ボソッ」と言ってのけた。
おれは
「そうですよ。よくわかりますねぇ」
と返答するしかなかった。


耳がよいと他人の言うことはよくきこえる。おれの「独り言」なんぞ、彼にとっては筒抜けだったのだ。
もちろんおれにとっては言うまでもなく、編集部員の雑談は「きこうとしなければ*2」耳に入ってきていたものだった。おれはそれを遮断することに努めた。仕事の邪魔になるからだ。
彼は、周囲の雑談をききながらもちゃんと仕事をし、時折それに応じることができていたのだ。さらにはおれの弱点まで看破していた。
素晴らしい能力である。


これは、ひとえに鍛錬によるものだとおもう。ききたくないものは除外し、ききたいものを受け容れる。
聴力が発達している人間は、こうした鍛錬を行わないとおよそ狂うだろう。


絶対音感? なにそれ?


閑話休題
筒井康隆の「七瀬ふたたび」では、主人公の七瀬がテレパスを自覚する過程において、眠っているときに「家の猫が台所の床にこびりついている飯粒をなめている」意識が紛れ込み、それ以後自分の「感覚」を遮断することを覚えたというような挿話がある。
(ゑ? これって「家族八景」のほうだっけ? 忘れた)


きくことときかないこと。
きかせなければならないことときかせなくてもよいこと。
38歳にもなってまだ使いわけがうまくできないおれである。


数年前(いつだかもう忘れた)灰野敬二さんのライブの打ち上げに同席したとき、面とむかって言われた。
「だれでもさ、マイク握ってわーって声を出したいって気持ちはあるんだよ。オヤジがカラオケでやるのもそう。ああいう人たちも同じなんだよ。そういう気持ちをわかってないと」
↑この発言はおれのフィルタをとおした100%曲解のものである。だが、解釈は間違っていないとおもう。
問題はそんなことじゃなく、灰野さんがおれにむかって「そんなようなこと」を言ったということだ。
もう少しわかりやすく書くと、灰野さんが「そんなようなこと」じゃなくても「なにか」をだれかの面前で語ると、それに感服してしまう人間がいるということだ。
さらにわかりやすく書くと、「なにか」を語る灰野さんの声や身振り手振りやなんやらに、美しさを見出す人は多いのだろうということだ。

*1:かつてはそうでしたがいまはチャットでやっています。過去ログのとおり。念のため。

*2:きこうとしなくともの間違いじゃねえか? とおもった人には「へえ」と言っておく。