かくして美声は証明される

数時間まどろんだだけで目覚めてしまい、早々と6時半ごろに目が覚める。とはいえ前日も同じようなものだ。
あまり食欲がないが軽食。卵雑炊など。
きのうは救急車で病院に行き、帰りはタクシーを使った。普段なら余裕で歩ける距離なんだが鎮痛剤入りの点滴を受けたとはいえ全身の痛みと嘔吐感は払拭しきれていなかった。やむを得ない選択だった。
きょうも多少不安が残るが、自転車で出かけることにした。


外来受付の脳神経外科のところに診察券を放り込み、待つこと約2時間。ようやくおれの名前が呼ばれた。
診察室に入る。
「鈴木さーん、具合はどう?」
なんとも間延びした声だ。
「きのうよりは全体的に痛みが軽減されてますが、薬のせいなのかなんなのか、やたらと頭がふらふらします」
「そう。脳はね、問題ないから」
CTの画像を見ながら医師が言う。つーか脳に異状がないってのはきのうきいたから。んでなに?
「ここんとこね、左耳のとこの骨の部分、細い筋が入ってるでしょ? だけどね、これだけで左側頭部の頭蓋骨が骨折してるかどうかは判断できないんだよね」
画像を指さしながら医師は説明するが、だからなんだっつーの。おれは痺れを切らして質問した。
「現実に、おれ、左の耳から出血しているわけじゃないですか? これがなんによるものかは判断できないってことですか?」
「うん。やっぱ耳鼻科で診てもらったほうがいいよね」
こいつはおれを2時間待たせ、というよりもきのうからおれを診ておきながら、明らかにしたことはなにかというと自分がいかに無能な医師であるかということだけのようである。
「きのうもそうおっしゃいましたが、こちらで耳鼻科を紹介していただくことはできないんですか?」
「できますよ。やっぱ大病院がいいよね。設備がいいしちゃんとした検査もできるからね。そうだな、この辺だと○○とか△△とか☆☆とかかな。それなら紹介状書けるけど」
「□□はどうですか?」
□□病院はおれがこの夏に橈骨神経麻痺を起こしたとき大変よくしてくださった病院である。あいにくおれはその後財布を盗難に遭い、診察券を失ってしまったので、□□病院に耳鼻咽喉科があるかどうかわからなかったのだ。
「ねえ、□□って耳鼻科あったっけ?」
医師がナースに尋ねるとすぐに返事がきた。
「あそこにはないです」
おれは、結局3つのなかで一番まともそうな△△病院を選ぶしかなかった。ここには入院した経験もあるし、まあ少しは信頼できる。
「じゃあ△△でお願いします」
「はい」
で、医師は紹介状の書き起こしにとりかかり、おれの左手についてはなにも触れなかった。おれのほうもきくのも面倒になっていた。挨拶をして診察室を出る。
紹介状と、きのう撮影した頭部CTのフィルムを会計時に受け渡され(先方で見せるように指示を受けた)おれは△△病院へむかった。
ちなみに、きょうのこの病院の領収書明細。診察料:1,100円 その他:2,200円 保険分合計:3,300円 負担率:30% 定率負担金:990円
なぜ「文書料」という項目があるのに、紹介状料金をそこに含めないのか。ふう。


△△病院に到着。午前の診療時間が終わっているというのだが、特別に見てもらうことになった。
待ち時間も短く診察に。おれが持参したCTの画像ではやはり判断しかねるので、耳の部分にもっと接近したCTを撮影すると医師は言った。
それと、その前にもうひとつ検査を行うとのこと。頭蓋骨折によって内耳内部に血液が入り、鼓膜を突き破って出てきたにせよ、別の部位が出血して鼓膜を突き破って出てきたにせよ(医師が言うには、耳から血が出ている時点で鼓膜は破れているそうである。中耳から鼓膜を通して染み出して外耳道に流れ出すわけではないとのことだ)内耳そのものに損傷があると聴力の異状が見られる。CTの結果とあわせてみたいので聴力検査をやりたいとのことだった。もちろん了承する。
まずは早速その聴力検査を受けることに。方法は2種類ある。まず第一にごく普通のヘッドフォンを頭に装着し、左右それぞれに正弦波によるさまざまな高さの音を送る。きこえたら、手許にあるボタンを押す。きこえているかぎりボタンは押し続けること。これだけのものだ。
ある音が入ってきたとき、すぐにボタンを押すことができるかという反射能力を問われているような感もあったが、難なくクリア。「きこえているかぎりボタンは押し続けること」の意味もわかった。検査技師(実はこの医師がそうだったのだが)が音をフェードアウトさせたり、あるいはフェードインさせたりするのだ。前者の場合なら、きこえないほど小さくなったらボタンから指を離す。後者の場合は、きこえはじめたらボタンを押す、という具合である。
そしてもうひとつの方法で検査。最近は携帯電話にも使われている「骨伝導スピーカ」を使った検査だ。ヘッドフォンの代わりに骨伝導スピーカを耳たぶの裏辺りに密着させ、そこから音を送りだす。きこえたらどうするかは先の検査とまったく同じだ。
先の検査は、外耳道を通した「空気伝導(気導)」での聴力検査であり、今回のは「骨導」での聴力検査である。また、骨導検査の場合、たとえば左耳を調べている場合でも、骨を通じて右の内耳へ振動が伝わってしまうので、この場合は「片耳だけのヘッドフォン」を右耳に装着してそこからホワイトノイズを流す。「ノイズマスキング」と呼ばれる方法だそうだ。これによって右の内耳に伝わった骨導音はノイズに妨げられることになり、より正確な検査結果が期待できるというわけだ。


検査を終えて開口一番、医師が言った。
「もともと耳がかなりいいんだな」
音楽をやっていて耳がよいと言われて嬉しくないわけがないのだが、いまの状況は喜んでいる場合ではない。医師にさらなる説明を求めた。
「結果から言うと、内耳はちゃんと機能している。とくに低音域にたいして敏感で、骨導なら0dBよりも小さな音に反応しているよ。これからCTとって確認する必要があるけれど、内耳そのものは大丈夫で、いまは内出血した血に覆われていて鈍くなっているんだろうね。もちろん中耳もだろうけど。あ、この線が左耳の気導でこっちが右耳の気導。上の、カッコでくくってあるやつが骨導ね」
説明に頷きながら検査結果のグラフを見るが、ちょっと腑に落ちない点があったのできいてみた。
「あの、この線が右の気導ですよね? 怪我をしているわけでもないのになんで骨導より鈍いんですか?」
「ああ。耳ってね、片方がおかしくなるともう片方が補おうとする反面、つられて聴力が下がっちゃうんだよね。それに、右が骨導より下がってるのはほとんど低音域で、中高域はそんなに変わりないじゃない?」
「そこなんですよ。あの、おれ音楽やってまして、パートはベースなんですけれど、大きな低音に曝されすぎてこうなったのかなあってちょっとおもっちゃいまして」
医師は軽い笑みを浮かべながら答える。
「ああ、それはないよ。それでやられたんだったらもっと極端に鈍ってるから。参考までにきくけど、どんなジャンルのやってるの?」
「フリージャズとレゲエを混ぜたような感じです。どちらにしてもやっぱ低音きついんで」
「そうだねえ。でもこの結果を見たかぎりじゃね、むしろ高音聴いてて辛くなるんじゃないかっておもうんだよね。あ、もちろんいまの「怪我をしている状態」での話だよ? ほら、この右の気導見ると4,000から8,000ヘルツが急に下がってるでしょ*1。トランペットとかね、レゲエだとティンバレスのカーンって音とか、ああいうのが耳にくるかも知れない」
先生妙にラテンに詳しいじゃないの、つーか微妙に話題変えてるじゃないの、とおもいつつ返事をした。
「あっ、さっきの検査でもちょっと左耳が痛い音がありました。結構高めのやつで」
「そそ。まあとにかくCT見ないとわかんないけど、これで難聴が残ってミュージシャン生命に支障が出るとか、まして日常生活に困るようなことはないとおもうんだよね」
「そうですか。安心しました」
そしてCT撮影を受ける。
でき上がったフィルムをもって耳鼻咽喉科の受付まで戻る。もう午後の診療がはじまりそうな時刻だった。


医師はCTをつぶさに見て所見を述べた。
左右の耳付近の頭部を見比べると、左側頭部に骨折があるとは言い難い。内耳、中耳について見てみても、左耳に関しては明らかに血栓と見られるものが残っている。これらが自然に組織内へと吸収されることを期待できないわけではないが、薬物投与によって血栓を溶かして鼻や口から流しだすことを治療の主眼とする。また、内耳や中耳内部で化膿を起こすと厄介なので、予防のため抗生物質投与も行う。また、末梢神経の機能改善のためビタミンB12の投与も行う。
概要として上記のようなことを医師はおっしゃった。
こうしておれは1年に二度もクラリスメチコバールを服用することになったのである(ただし後者についてはゾロメコバラミンという薬だが。つーかゾロというよりも一般名がメコバラミンなんだよな)。


さて長々と書いてきたが表題へ戻ろう。
期せずして今回、おれの聴覚が優れているということが医学的検査で証明された。
聴覚が優れているということは質の高い演奏を行うためにはきわめて重要な素質であり、日常生活において人間どうしが会話をする場合には相手と自分との聴覚の差を利用して、意図的に訴えることや訴えないようにすることさえ可能である。
意図的に訴えきかせる方法のひとつとして、美声で話すというものがある。
では美声はどのようにしてつくられるか。他人の声をきき、自分の声を客観的にきくことが肝要であるが、今回の担当医のようなよき理解者の存在も必要なのだとあらためて認識した。
そして、よき理解者とは彼だけではない。現在もなお、おれの音楽を欲してくださっている有り難くも奇特な方々――そうした人々のおかげでおれは美声を発することができ、よい演奏ができ、生を全うできるのだ。
みなさんどうもありがとう。


シンタロウさあ、おれまだそっちへ行くべきじゃねえんだろ? わかってるよ。もっともっとやってから行くよ。
行くときになったらそれなりにカッコつけて行くからさ。一緒に遊ぼうぜ。な?

*1:言うまでもなく、これは前述の医師の説明のとおり左耳につられてそうなっているものであり、左の気導のこの音域の感度の鈍さはもっともっとひどいものである。そういう状態でその音域の大きな音が入ってくると、後述のおれの発言のように痛覚を覚えることになる。