なんでもひとりでやることの難しさを再確認する。

小雨降るなか、池袋・新文芸座前で相方と落ち会う。このクソ寒いのによく路上に立ってるよ。つーかこいつの風体でそんなところに立ってるとポン引きにしか見えない。まあそれはおいといて。
もうこの日の予定は1か月以上前から決めていた。おれが退院して快気祝いでもやろうかというときに「ホルモン焼き食って映画でも見よう」という、ほとんど「焼肉食ってサウナへ行こう」というオヤジと大差ないノリでつらつらと映画情報をあさっていたとき、新文芸座のオールナイト情報としてこの日のイベントを知った。
和製ドラゴン「倉田保昭ワンマンショー」である。
なにがなんでも見なければならない、行かなければならない。そう決めた。
子どものころに「キイハンター」「アイフル大作戦」「バーディ大作戦」「Gメン'75」と見て育った世代であるおれにとって、倉田保昭千葉真一と並んでヒーローだった。アイドルだった。なにがなんでも意地でも行くぞという気になるのも無理もない。
演目は以下のとおり。

3本立て映画上映の前に、なんと倉田保昭みずから生出演でトークショーである。なにがなんでも意地でも行く(ry
相方と落ち会って新文芸座に入る。なかなかの盛況だった。デブと痩せのウザい髭面2人組が比較的前の良席に、すでに座っている方々の迷惑を顧みず潜り込む。ほどなく舞台袖から倉田登場。
トークはとてもおもしろかった。相方があとで言っていたが「謙虚な人だなあ」という印象。妙に営業トークに慣れているような感じがまったくなかったのもよかった。間違っても「おれがブルース・リーにヌンチャクを教えた」などとは言わない。撮影中に自分がヌンチャクで遊んでいたのを彼がおもしろがって見様見真似でやりはじめ、それを映画にとり入れたと語った。
「先日あるパーティで菅原文太さんとお会いしたんですが、そのときにですね、『いやー倉田ちゃん、きみのように一匹狼でアジアの映画界に飛び出してって、それで全然日の目を見ないってのもなあ』と言われまして、いや、少しは日の目見てるんですけどって言いそうになりまして(笑)まあそれがご縁で今度文太さんのラジオ番組に出演することになったんですが……」
この話をきいたときは、一緒に笑いつつも少しわが身を重ねてしまった。みずから制作をつとめた「ファイナルファイト」と「イエロードラゴン」による負債は1億円に上ったそうだが、私財を投じて返済中とのこと。その辺についてユーモアを交えつつ語りながらも*1、しかし自分はなんら恥じることはしていないのだという堂々とした態度が感じられた。なんと言っても「世界のクラタ」とつねに冠がついているのである。その矜持は簡単に揺らぐものではないだろう。たとえ日本を代表する映画スターに少々いじられたところで。
トーク終了後、休憩を挟んで上映開始。その休憩中にロビーで倉田はファンからサイン攻めにあっていた。携帯をむけて写真を撮る者も多くいた。相方はサイン入りブロマイドを買っていた。ロビーで見た「ナマ倉田」は、存外に小柄だった。公称173センチ。ブルース・リーとの初対面時について話した際に、167〜8ぐらいの小柄な男だったがやはりスターのオーラが感じられたと言っていたが、おれはそれをそっくりそのまま倉田に返してやりたくなった(笑)。


ロビーが落ちついてから1本目の「イエロードラゴン」上映。そして朝まで3本たっぷりと楽しんだ。
感想を端的に述べると、尻上がりにおもしろかった。つまりは、残念ながら最新作である「イエロードラゴン」がこの3本のなかでは、おれの採点によると一番低い評価となったわけである。それと同時に感じたことをまた端的に述べると、日本人はかくも残虐で非道な映画しかつくれないわけでもあるまいということだ。


「イエロードラゴン」だが、さすがアクションは最高の見ものとなっている。だが脚本が恐ろしくつまらない。以下はネタバレなので注意していただきたいが、そもそもタイトルにもなっているこのイエロードラゴンなるものはなにかというと、服用するとドーパミンの分泌を過剰に促し常人の4倍の身体能力を引きだすという摩訶不思議な薬物である。だがこれは未完成品であり致命的な欠陥があった。血中の赤血球を死滅させてしまうのだ。このイエロードラゴンの欠陥を克服し完全なドーピング薬物にするために必要なもの、それは開発者の血液である。血中の抗体が(なんの抗体だっつーの(笑))赤血球の死滅を防ぎ、イエロードラゴンを完成させるという。だが当の開発者はすでに死亡していた。しかし開発者には一人娘がいて……
と、ここまで書いただけでおよそこの一人娘をめぐる争奪攻防戦が繰り広げられることは容易に想像できるだろう。また、いくらドーパミンが多量に出ていても赤血球が次第に死滅してしまうのなら、血液の酸素運搬能力は著しく低下しまともな運動など不可能ではないのか、とまさにツッコミどころ満載の設定なのだ。
しかしこのような整合性のない設定のもとでインチキクサいサイバーパンクアクションもどきのストーリーを描かなければならないのには理由があるとおもわれる。たとえばイエロードラゴンの服用によって赤血球が死滅し、断末魔の苦しみに煩悶している人物の腹部を刀で突き刺すとどうなるか。
無色透明の水が噴き出すのである。
真っ赤な鮮血ではない。水である。腹から水がぴゅーっ、どばどばっ、である。バカバカしいにもほどがある。
これはつまり、流血による暴力描写を回避するために「血中の赤血球が死滅する」などという荒唐無稽な設定を無理やりつくりあげ、たとえばイエロードラゴンを服用した人間の首を刎ねたら水が出るのだとせざるを得なかったととらえることができる。いや、そうとしかとらえられない。血しぶきを派手に噴き出させたら、この映画が公開されるマーケットはおのずと限られてくることだろう。表現の限界である。
とはいえ、冒頭でも書いたようにアクションは見もの。とくに宮本真希が素晴らしかった。これほどのアクションができる女優が日本にいたのかと蒙を啓かれた。JAC(現JAE)の水野美紀宮村優子にも見劣りしない。
照英は……んー、残念(笑)。


ファイナルファイト」は異種格闘技戦を舞台とした正統派アクション。「凋落」「敗北」「挫折」「修行」「復讐」「勝利」といったキーワードで語り尽くすにはもったいないが、わかりやすいストーリーに派手な格闘シーンがてんこ盛りである。
「武闘拳・猛虎激殺」はこの時期の東映アクション映画の真骨頂だ。虎と空手家が戦うというバカバカしいプロットを軸に、よくもここまで得体の知れぬ武闘家たち(剣術、棒術、長刀術、鎖鎌術、相撲その他いろいろな武術の使い手)を集めたものだという感じで満腹間違いなしである。当初千葉真一主演で撮る予定だったのだが千葉が降りたので倉田にまわってきたといういわくつきの作品だ。ある意味千葉が降りたのも無理もないと納得する作品である。
ただ、やはり先述のとおり残虐きわまりない。個人的には一番楽しめたのだが、もしこれが2004年の作品だとしたらどうだろうか。虎が人間を食い殺すなんてのはひどすぎると非難され、逆に倉田扮する空手家が虎を倒すクライマックスシーンについては動物愛護団体からのクレーム必至であろう。その他にも、監禁、緊縛、拷問、私刑、とまさに戦後のカストリ雑誌並のエロ・グロ・ナンセンス描写で一杯である。まず、リスクが多いと制作は断念されるに違いない。
畢竟日本映画は性器を露出して公開することが不可能であるという限界のもとにつくられてきた。現在もそれは変わっていない。その一方で暴力描写には近年まで規制を設けられることがなかった。こうした映画制作の歴史のなかで、暴力描写やグロ描写は「オルタナティヴ・ポルノグラフィ」として機能してきたのである。セックスとバイオレンスは不即不離のものであろうが、こと日本映画においては暴力描写における過剰さ――激しく飛び散る血が、腫れ上がった挫創が、血の滴る刺創や切創が、性的興奮を刺激するイコンとしてあったことは否めないであろう*2。バカな野郎どもはピンク映画館ですらマンコを拝むことができないゆえに、銀幕に映し出された血腥い傷口を代用ポルノととらえて倒錯した興奮に酔いしれていたのである。


図らずも制作年の新しいものから古いものへと3本続けて見たことによって、一人の俳優がなにをやってきたか、どんな背景のもとでなにをやろうとしていたかをつぶさに追うことができた。それも、一貫して「アクション」にこだわってきた俳優の仕事(しかもときには制作まで手がけている)だからこそ時代背景との関連が読みとることができるのである。
作品ごとに自身の演技スタイルを変えていく俳優は多いだろうし、おれはそれを否定はしない。監督についても然りである。その都度の変化で同時代性を表現する者もいることだろう。しかし変わらずにひとつのことをやり続けていると、むしろ時代の変化の影響を受けつつ微妙に変わっていっている様が逆説的に見てとれるのだ。


見終わったあとは近所の居酒屋「大都会」で軽く飲みながら2人で語りあった。おれはおよそ上記のような話を相方にした。まったくバカほど熱く語るものである。
適当なころ合いに店を出て別れた。おれはその後都内某所へ。
以下略。

*1:家は借地権なのに抵当に入れた、とか(笑)。

*2:血の滴る切創=月経時の女性器の隠喩と安直なまでにとらえていただいて構わない。