そのメディア固有の表現とはなにか

遅ればせながら、最近iTunesでラジオをよく聴いている。おもに聴くのはやっぱりレゲエやジャズのストリーム。いま流しているストリームでは、ドルフィの「ジム・クロウ」とかコルトレーンの「エキノクス」とかがかかっている。もちろんCDをもっているのだが、自分でプレイヤーにディスクをセットしなくとも勝手にいろいろ流れてくるのはそれはそれで楽しい。つーか便利だ。10年ほど前に家に有線を引こうかとかんがえたことがあったのだが、金云々よりも機材を設置するのが面倒で契約にいたらなかった。いまやパソコンとiTunesがあってインターネットに接続すれば、10年前に描いていたミュージックライフ (死語)をエンジョイ(死語)できるようになったわけだ。当時「有線はネット化しちゃえばいいのにな」とおもっていたおれだが、実際本当にUSENはそうなってしまったので、まったく隔世の感がある。
自ら能動的になにかを選んで聴くということが、1枚のCDを選ぶことから1つのネットラジオのストリームを選ぶことへと変化したといえども、耳にする音楽にどれほど変化が生じたのかと言えば、それほど変わっていないようにおもう。変わったのは音質だ。ビットレート96kbpsで配信されている音楽を、ノートパソコン搭載の貧弱なスピーカで聴く。これは、音楽を聴くうえで、またつくるうえで、なによりも音質を重視してきたおれにとってはものすごく大きな変化だ。
だが、ネットラジオ聴取とCD聴取とは対極に位置するものではないとおもう。高品位の音質を求めるのならCDを聴けばよいのであって、ネットラジオを聴くのは、こうして風呂上りに酒を飲みながら駄文をものしつつ聴くのにちょうどよいから流しているという側面がある。いや、10年前だって、酒を飲みながら自分の部屋でCDをとっかえひっかえかけていたのだから、要はものぐさになったのだろう。でもこの高い利便性はあまり大きな変化ではない。大きな変化はやはり音質だろう。そして、より言えば、この程度の音質で音楽を流して満足できるような生活におれが違和を感じなくなったことが最大の変化と言えるかもしれない。
昨今CDが売れないのも納得がいく話ではあるが、よりよい音質で聴きたいとおもえば買うのだ。きのうはラテンのストリームでいくつか興味を惹かれたものがあり、アーティスト名を記銘した。ラテンマニアである知人に質問していろいろ教えてもらおうかなとおもう。こういう音楽との出会い方・聴き方もあるのだとおもっている。
こうして書いているあいだにも、アイラーのホーリー・ゴースト、ミンガスのラブ・チャント、モンクのレイズ・フォーなんかが流れた。ラジオって素敵。
だから、いつまで経ってもインターネット「でしかありえない」コンテンツなんぞ生まれるはずがないのだ。それを自覚的に意識し、たとえば、音楽制作に反映させているアーティストがいたらぜひお目にかかりたいものだ。皮肉でもなんでもなく、本当に知りたい。そういう人物はいるのかどうかと。
日記の表題の意味するところはそういうことだ。