フェチってなんだろう

敬愛する先輩音楽家である、非常階段・インキャパシタンツのコサカイさんと、いつものようにツイッター上で雑談をしながら、先日ちょっと深くかんがえざるを得ないようなメンションを頂戴した。

そのメンションを頂戴するにいたったやりとりの経緯は、割愛する。
ともあれ、コサカイさんに問われたのはこういうこと。
https://twitter.com/#!/pukka_white14/status/179967690935504897
女性のフェティシズムは下着や靴などへの偏愛にはならないのだろうか、と。
これを1週間ほどかんがえていた。

いきなり大上段に構えたようなことを言うようだけれど、フェティシズムというものを多くの人が誤解しているとおもう。

フェティシズムとは、そもそもは「関係をもののようにとらえてしまう妄想」のことだ。あの子の下着をクンカクンカする……ここで重要なのは「あの子」ということで、ただ汚れた下着のにおいが好きだとか、まして付着した糞尿を味わうのは、ただのスカトロ趣味にすぎない。

この場合「あの子」との関係が、実際に恋愛関係なのかストーキング的片想いか、はてまたブルセラショップの売り手と客か、などの違いがあるけれど、いずれにせよ下着自体は両者の関係を象徴しているにすぎない。嗅ぐという行為は「あの子」の体臭を愛おしんでいるというよりは、関係妄想に浸る営みだ。

そして、この営みは次第に目的を失い「置いてけぼり」を食らうようになる。あらかじめ「あの子」の体臭を愛おしむことがなく(いや、当初はあったとしても、だ)そこからどんどん乖離して、単に下着を集めるだけになっていく。「あの子」との接点が下着を所有することになってしまう。これがまさにフェティシズム。関係のもの化である。

同様の例を挙げよう。そもそもは好きで聴いていたミュージシャンのCDを、だんだん、聴きもしないのにただ買うだけになっていく。CDをもっていることがファンの証となり、音楽に聴き入ることから遠ざかっていく。フェティシズム的な所有である。CDが売れなくなったのは、こうした所有が虚しいということに多くの人が気づいたからじゃないだろうか。

「男の人が煙草に火をつける仕草にぐっとくる」という女性は、それはその手つきや指遣いで自分に触れられることを直接的に想像している。これを「私は手フェチなんです」と表現する事例は多いのだけれど、それは、本来的にはフェティシズムでは、ない。恋愛へのファンタジーだとおもう。

閑話休題。コサカイさんの問い立てについて。女性の場合は、性欲から生じるフェティシズムがストレートに現れにくいんだとおもう。そして、それは購買欲へと転化・昇華されていく。ろくすっぽ身につけないものでワードローブが埋まっていく。それは恋愛へのファンタジー、あるいは自己承認への欲求の現れだろう。

好きなバンドを追っかける。写真を撮る。雑誌の記事をスクラップする。こうした行動はまさにフェティシズム的だ。そして「女性的」だとおもう。これが男性のフェティシズム的行動とどう違うのかといえば、その先にセックスのリアリティ、恋愛ファンタジーの実現があるかないかだとおもう。

最近「つけ八重歯」をする女性が増えているらしい。板野友美大島優子の人気からとのこと。これもまたフェティシズムの産物だろう。憧れの対象への同化という「関係のもの化」として、人工の八重歯を手に入れる。女性のフェティシズムの基底にあるのは多くの場合自己愛で、他者へ向かっていないんだとおもう。

「あの子のパンティーになりたい」ゲロゲリゲゲゲの曲だ。自分の妄想を、好きな対象への付属物へともの化してしまうわけだ。女性は憧れの対象への同化を直接的に行動に表してしまうが、男性の場合はこうした行動になる。ここがおそらく決定的に違う。

女性は好きな男が身につけているものに自身を同化しようとはおもわないだろう。男性は、そうする。そんな妄想を平気で繰り広げる。

一方で、たとえば男性は好きなロックスターのファッションを模倣して、自分もロックをやってみようと音楽に向かうのだとしたら、早晩そんな模倣は簡単に挫折していく。見た目の真似では通用しないという「現実」を突きつけられることになる。

女性の場合は「つけ八重歯」の事例が示すように、それを手に入れたときに「かわいい私」が「本気で」通用するのだとおもいがちだとおもう。そして、それを許容してしまうのは、おそらく男性ではなく女性だ。「かわいい私」のアピールは、そもそも異性ではなく同性に向かっている。

振り返れば、おれが好きな女性有名人は、八重歯のもち主が多いことに気づく。八重歯が与えるイメージは大雑把には「小悪魔的」といったところだろうが、それはあらかじめそうした容姿をもった女性が醸し出す魅力であって、人工的につけ加えて演出できるものではないとおもう。つまり"精神の問題"だ。

中森明菜は八重歯を矯正した。それでも彼女の"精神"にはおおよそ変化はなくて、そこから生み出された歌におれは長年魅了され続けている。管野しずかが八重歯だということは、こんなことをかんがえるにいたってはじめて気がついた。おれはきっと女性の容姿などまるで見ていなくて、惹かれているのは別のところなんだろう。

それでも「かたち」にこだわり、かたちを愛でたいということ。40代もなかばをすぎて、自分がどういう容姿の女性に惹かれるのかが、管野しずかを通じてようやくわかった気がする。そしてその背景には"精神"がともなっている。病みが現れているあの姿かたち、それがたまらなく好きなのだ。

結論としては、男女間では、こうもフェティシズムの相が違ってくるのかなあ、という話だ。すなわち、男女の関心はあらかじめ違うところにあるんだとおもう。
しかしまあわれながら、オチはこんなものかとだらしなくおもう。